ふたつの「17才」〜平成元年のロックンロール

1971年、いまだ「本土復帰」前の沖縄から上京した17才の少女が自分の年齢をタイトルにした曲でデビューヒットを飛ばし、アイドルと呼ばれる存在の先駆けとなったのだったが、それから17年以上を経過し、そろそろ所謂「アイドル冬の時代」の気配が漂い出す1989年、その数年前、17才でCMモデルのオーディションに合格し翌年デビューした熊本育ちの20才の歌手が、同曲のカバーによってブレイクを果たすこととなる。
言うまでも無く、前者は南沙織、後者は森高千里。曲名は「17才」。

80年代末の当時流行していたユーロビートによるアレンジで、既に「懐メロ」と言っても良い過去の曲をカバーした、と言われれば、当時を知らない若い人たちは「企画もの」と連想するだろう。いや、確かに既に自ら作詞を手がけるようになっていた森高(彼女の場合は苗字で呼びすてにするのが敬称だと思うのでそうする)にとっても、一種の「企画もの」だったのかもしれない。しかし、この種の企画としては異例なほどのヒットとなり、このシングルは年間オリコンチャートでも43位を記録した。ここから森高は大きく飛躍し、特異なポップスターへと成長していくのだが、とりあえず今は、1989年に踏みとどまって当時のPVをご覧いただこう。

ファッションは原曲が発表された70年代ではなく、それよりも前のアメリカンオールディーズの黄金時代の60年代初頭を感じさせ、楽曲、サウンドと相まって60年代から当時の「現代」までの要素をかき混ぜた不思議なテイストを持っている。全体として、アイドル的な様式を突き詰めたような世界観と言えるだろう。
これが「企画もの」に終わらなかったのは既に成人を迎えていた森高が、ある意味で本物のアイドルになってしまったからだ。
「17才」のカップリングとして収録された、そのものずばりの「20才」で「来年にはオバさん」と歌われる年頃になったのにも関わらず(その後のコギャルの年齢観を先駆けるような、この感覚は言うまでもなく後年「私がオバさんになっても」という代表曲を生み出す)。

当時、レコード店の中には「ニューミュージック」と「歌謡曲」という風にコーナーを分類していたところがあったが、森高のレコードはこの時期、前者から後者に移るという非常に珍しい「越境」を起こしていた。つまり「アイドル歌謡」として遇されるようになったのだ。
デビュー曲の和製シーラE的なPV。

しかし、18才のデビュー当時の方が、「ニューミュージック」として売られたにしても、実際のところは職業作家の曲をあてがわれた歌手であり、また女優やテレビのクイズ番組のアシスタントと言ったタレント活動もしていたのであって、実質的には「アイドル」と言っても良い存在だった。それが徐々に作詞をするようになり、仕事も歌手一本に絞って、脱皮を果たそうとしていたのが、このシングルが出た1989年ごろだった。それにも関わらず、「17才」の一つ前のシングル「ザ・ストレス」ではミニスカートのウェイトレスのコスプレをして、一気にイメージチェンジをしたのだ。


「17才」も収録したアルバムは『非実力派宣言』と題され、より「アイドル」的なイメージが強調されたとも捉えることは出来るのだが、カーネーションが参加し、彼らの代表曲「夜の煙突」をカバーしたり、その他は全て自作詞による楽曲を収録している点では「ロックアーティスト」的とも言って良い要素を展開した作品になっている。

果たして森高はアイドルだったのか、それともアーティストだったのか。いや、結局は彼女は、そういう二分法の意味を無くしてしまった存在だった。だから、その道は孤独だったし、現在でも多くのアイドル論では省かれたり、十分に語られなかったりしてしまう。
彼女は決してアイドルを演じていたのでもなく、ましてや否定していたのでもない。自分がアイドルと見られることを肯定したからこそのコスプレなどの表現だったはずだ。
しかし、確かに彼女が1989年、アイドルの歴史の始まりの曲を歌うことで、その歴史のサイクルは一回、閉じられてしまったのだった。

ただ、そこから新しい時代が始まった。たとえ、その後何人も登場した自作詞を歌う女性シンガーが今度は、「アーティスト」として遇されるようになってしまったとしても。森高は「17才」を歌った数年後には、ほぼ全ての曲で自分が叩くドラムのビートに乗せて歌うようになる。90年のシングル「臭いものにはフタをしろ!!」で彼女が宣言したように「腰をフリフリ歌って踊」ること、それこそが教条主義的な「ロック」ではなく本当の「ロックンロール」なのだから。

そしてロックンロールこそ大衆音楽の歴史の中でプロ=アーティストとアマチュア=非実力派の価値を転倒してしまった音楽である…というのも、まあ、「オジさん」ぽい理屈だろうね。